
断崖に、誰かが白い線を引いたようにしか見えません。
水書草は、高さ5〜8cmほどの小さな多肉質の草。匙形の灰緑色の葉を重ね、淡い青をのぞかせる喉を持つ純白の小花を咲かせる。この草が根を張れる場所は、世界でただ一種類しかない。高原に降った雨は砂岩の中をゆっくりしみ下り、水を通さない固い地層にぶつかると、垂直な崖のある高さで外へ滲み出す。その厚さ数センチの、岩が黒く湿る帯。水書草はそこにしか生きられない。だから株は横へ横へと隣り合って列をつくり、花の季節、断崖には何十メートルも続く一本の水平な白い線が現れる。線の高さは崖の中の水位そのもので、雨の多い年は上がり、渇いた年は下がる。壁には昔の線の跡が細い棚となって何段も残り、いちばん新しい一段でだけ花が咲く。遠くから峡谷を見わたすと、赤い壁に誰かが白い線を引いたようにしか見えない。それは崖が自分で引いた、水の目盛りである。
PLATE I
PLATE II
PLATE III
PLATE IV
PLATE V
PLATE VI
PLATE VII
PLATE VIII
断崖に、誰かが白い線を引いたようにしか見えません。
けれどこれは花です。水の滲む高さが、そこにしか無いからです。
アメリカ南西部、コロラド高原の砂岩の峡谷。
高原に降った雨は岩の中をしみ下り、ある高さで崖の外へ滲み出します。
この草は、その厚さ数センチの湿った帯にしか根を張れません。
だから株は横へ横へと列をつくり、崖に一本の水平な線を描きます。
掘り返した窪みでは、白い塩殻の直下に薄い灰色の泥層があり、そこだけが指先に冷たかった。予兆草の芽はこの層に沿って並び、孤立して出ることは少ない。遠方の降雨で浅層水の塩分がわずかに下がり、腐植を含む溶存有機物が増すと、硬い休眠種子が同じ窪みで一斉に割れるらしい。
開いた花に訪れる虫は見なかった。葯は花喉の内側へ早く崩れ、花粉は柱頭の粘りにそのまま落ちる。風を待つ構造でもない。短命な一花性は不利に見えるが、冠水前の数日で自家受粉を終え、乾き戻る塩殻の割れ目へ重い種子を落とすなら、むしろ確実な仕組みである。
水が地表に届くと、株は倒れるより先に透ける。急な低塩分化と冠水で根元の泥は嫌気化し、肉厚の葉は淡く煮えたように崩れる。数日後には花柄も塩泥へ沈み、標本に残るのは種子だけだ。湖縁を渡る牧畜民や初期測量隊が『咲いたのに採れない草』と記した理由は、この不在の速さにある。